読書記録

本は距離と目方

子どもと大人の間にいる人に

友人たちに、高校生から大学生くらいの人にお薦めする書籍を教えてもらいました。「子供と大人の間にいる人」にはこのあたりかな、と言っていました。

友人の息子さん兄弟にプレゼントをしようと思い、私なんかと比べ物にならない大量の書籍を読んできた友人たちのアドバイスをもらいました。教えてもらうものからいくつかを読んでから選んでプレゼントするつもりが、私の判断で情報が歪められるのを避けようと、このリスト自体を手紙にしました。贈り物は、上の子には以前に選んでいた彼が好きな数学分野の書籍、下の子には建築関連の書籍にしました。

ギリシャ人の物語

ギリシャ人の物語』

塩野七生、新潮社、2015

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読み始め:2024年6月

現代の民主主義の混乱を見て、過去の民主主義がどう成立してどう崩壊していったのかを知りたくなり、ギリシャやローマ時代を知りたいと思いました。塩野七生の『ローマ人の物語』が面白い、最初の5巻だけでも良い、と聞いたけれど何せ長編なのでなかなか手を出しづらいのと、ローマ人はギリシャがなぜ失敗したのかをよく調べて学んで、ローマを造ったらしいので、であればまずはギリシャ時代を知ってみようと思い、読もうと思いました。歴史として正しくない部分があるという批判があるらしいけれど、歴史研究をしたいわけではないので読みやすい小説で十分だし、一部創作があってもその時代を表現するのに適切だったのでしょうから、時代を知る手段として私にはすべてが史実である必要はないです。

国民に愬う

『国民に愬う』

河合栄治郎社会思想社、1967、河合栄治郎全集第14巻

(執筆は1941年(昭和16年)2月、当時は出版されず全集が初出版)

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読んだ:2024年6月

一言先に言っておくと、期待外れでした。少なくとも、この著作1つで河合の主張だと思ってはいけないし、時代背景と合わせて読まなければいけない著作です。普遍的な自由主義、反ファシズムの著書ではありません。祖父が昭和10年代、師範学校へ行ったころにJ. S.ミルや河合栄治郎を読み漁ていたことを少し前に知り読み始めました。イギリスの自由主義を支持し反ファシズム、反共産主義のため、第二次大戦中に有罪判決を受けた人とのことで期待しすぎたのかもしれません。図書館で23巻に別巻がある全集をざっと眺めて、自由主義や社会思想の専門的な書き物もありましたが、その思想をもとに一般向けに書かれたものであればまずはとっつきやすいだろうと思い選びました。

『学生に与う』と対となるもので、平時の学生向けのものの『学生に与う』を書きながら非常戦時の一般の人向けのことがらを取り置いてまとめたものとのこと。そして『知識人に与う』の構想もあったけれど実現しなかったようです。1941年(昭和16年)2月には書き上げていたけれど、その2年前1939年からいくつかの著書が発禁処分を受け、これも世に出ないままでした。秩序を乱すものを出版した罪で1943年に有罪が確定し、1944年2月に終戦を待たずに病気で死亡しています。1967年の全集に載り日の目を見ました。

これまで戦争を防ごうとしてきたけれど、満州事変、支那事変、日独伊軍事同盟と3段階を経てもう後戻りできないところまで来てしまった、ここまで来たら突き進むしかない、と言っています。もうにっちもさっちもいかない限界まで来ても、それでも河合自身がやるべきことを果たそうとした結果なのかもしれません。妥協したのかもしれません。そうだったとしても、「祖国」という言葉が大量に使われ、心を一つにしなければいけないと言っているのです。表現としてはかろうじて戦争も致し方ないとは言っていませんが私にはそう受け取れました。

有罪判決を受けるほどに政権におもねらず自分の思う主義を主張してきても、限界まで来て発言が変わったのでしょうか。そこで黙らず受け入れられる発言をすることに価値があるのでしょうか。

1つ学びがあった点は、指導が足りず人々の考えがまとまっていない、国民が呑気すぎるから鼓舞しなければいけないと言っています。戦争中は非国民だなんだといって黙らされたということが今の私たちの常識のようになっているけれど、緊張状態が日常に続いただけではなく国のことなど考えない緩さもあったということです。ちょっと新聞を読めばわかると思うが、ということも言っているので、多くの人は、知らない、もしくは無関心なんだろうと思います。裏を返せば、無視無関心を続ければ引き返せないところまで来てしまうということです。

東条英機をはじめ軍人たちがやったことだ、国民は黙らされた被害者だ、赤紙が届き南方へ行かされ、日々の空襲に遭い、二つの原爆を落とされた被害者だと私たちは思わされているのでしょう。当時の政権に非がないわけではないけれど、無関心は当時からあったのかもしれません。「いつ誰が始めたにもせよ、結局は我々一億の全国民の共同の責任である」に違和感をおぼえるかもしれないけれど、これは当時としても正しかっただろうし、民主主義であるはずの今であっても正しい主張だと思います。

時間があれば、これより前の時期の『ファッシズム批判』やまとめられたのは1940年でも内容はその前から発表されていた『学生に与う』なども目を通してみたいと思います。

生命式

『生命式』

村田沙耶香河出書房新社、2008

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読んだ:2024年5月

友人が、中学2年生の息子さんが読んでいるのを借りて読んだと聞き、私も読み始めてみました。星新一マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を思い出す、短編のサイエンスフィクション風な小説。よくわからないけれどわからないことも含めて文学作品です。

短編の『素敵な素材』を読んで、やっぱり今でも私には文学は向いていないのかもしれないと思いました。人毛を使った服や人の骨や歯を使った家具が出てくるけれど、これは人口の数パーセントしか使われないか何世代も使えるほど長持ちさせなければ、生産と消費のバランスが成り立たないだろうと思った。こういう価値観が大多数だという設定だし、高級ではあるけれどちょっと贅沢すれば買えるという描き方なので、供給が足りないはずではないかと疑問に思うと、読んでいて何も納得しないし面白みを感じられませんでした。まさか残忍な帝国主義で外から調達するというストーリーでもなさそうですし。過度な動物愛護や環境保護を揶揄している小説だと思うけれど、やっぱり私にはSF風味な物語は向いていないのでしょう。科学的裏付けにもとづいたフィクションがSFでしょうから、この作品はファンタジー小説と呼べるのかもしれません。

別にわざわざ計算したつもりはないけれど、読んでいると「材料、足りる?」って思ってしまうのです。

 

関連書籍

マーガレット・アトウッド、『侍女の物語』、2021

書店が閉店した

近所の中規模書店が閉店しました。書店の閉店でいつも私が思うのは、本 --> 言語 --> 教育と連想ゲームをして、日本語で多くの学問を学べるメリットがある一方で、新しい分野が翻訳されずに学問が数十年単位で停滞しているのではないかという疑問です。

日本では、日本語以外の書籍を読む人は少ないでしょう。私も英語の書籍はほとんど読めないので、翻訳版が出るのを待っている書籍がいくつもあります。知識が言語に依存する弊害です。そこにはやはり時間差があり、翻訳されなければその知識は得られないのです。一般書の分野でも、専門分野でもこの傾向は同じです。

何十年か前に日本の良い点として耳にしたのが、多くの学術書が日本語になっているので、多くの人が高等教育を受けられているという話でした。でもそれは今にして思えば、他の言語を学ぶ理由が低下し、新しい学びの機会を逃しているのではないでしょうか。

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久しぶりにブログを書き始めたけれど、なんか書きにくいな。Twitterでくだらない揚げ足取りをよく見るから、自分も重箱の隅をつぶしておきたい衝動に駆られる。自分の考えや文章に批判的な見方をしてよく考えるのはいいけれど、言い訳がましい文章にな言ってしまいそうです。AIの翻訳が進化してくれればいいとか、すでにある膨大な日本語の書籍もたいして読めていないとか。

知識人とは何か

『知識人とは何か』

エドワード・W.サイード著、大橋洋一訳、平凡社、1995

原著:Edward W.Said, Representations of the Intellectual: the 1993 Reith Lectures, 1994

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(2024年5月-6月)

たった15ページの「はじめに」を読むのに1時間半ほどかかった。読んでいるうちに考えがどこかへ飛んで行ってしまい帰ってこれないのです。

気になった部分を引用します。

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もし敵による不当な侵略行為を非難するならば、自国の政府が弱小国家を侵略した場合にも、ひるまず非難の声をあげられるようになっていなければならないということだ。知識人にとって、これならば語ってよい、これならばおこなってよいという指針などありはしない。真に世俗的な知識人にとって、崇拝すべき、または確固たる指針として仰ぐべき神々など存在しない。

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現代の世俗権力は、知識人を、かつてないほどまるめこんでしまった。

政府が、確保すべく奔走しているのは、政府を指導する知識人ではなく、政府の下僕となってはたらく知識人である。

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(堕落した)精神は弛緩し活力を失うが、それにひきかえ言語のほうは、スーパーマーケットのバックグラウンド・ミュージックめいた力を発揮して、意識を洗脳し、お仕着せの観念や意見を鵜呑みにするようそそのかすのである。

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なるほど知識人が民族存亡の危機に瀕した共同体を支援することには、測り知れない価値があるにしても、知識人が生存のために集団闘争に忠誠をつくすことは、批判的感覚の麻痺や、知識人の使命の矮小化につながりかねないので避けるべきなのだ。知識人にとってなすべきことは、生存の問題を超えて、政治的解放の可能性を問うことであり、指導層に批判をつきつけることであり、代替的可能性を示唆することであるーーたとえ、この代替的可能性が、いつも、まぢかにひかえた戦いには無関係なものとして周辺化されたり一蹴されるとしても。虐げられた者たちのあいだにも、勝利者と敗残者がいるため、知識人が、凱歌をあげる勝利の行進をする集団の側にだけ忠誠をつくすようなことがあってはならない。

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したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけることである。

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知識人がいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつの日か、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。

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亡命者とは、知識人にとってのモデルである。なにしろ昨今では知識人を誘惑し、まどわし、抱き込もうと、さまざまな褒賞が用意され、さあとびこめ、さあゴマをすれ。さあ交われと、知識人は語りかけられるのだから。また、たとえばほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威体制から離れて周辺へとおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。

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冷笑家は、すべてものの値段を知っていても、どんなものの価値も知らない人間のことなのだから。

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それはアメリカの若い知識人をはぐくむことも、彼らに着目することもなくなった。ここ四半世紀のあいだに、それは文化という銀行にいかなる投資もおこなわず、預金を全部おろしてしまったのだ。今日、それは外国から、おもにイギリスからの知的資本に頼らずには、やっていゆけなくなった。

 

関連書籍

ジョージ・オーウェル、『政治と英語』、1946

ジュリアン・バンダ著、宇京頼三訳、『知識人の裏切り』、1990

このブログについて

娯楽や仕事のための読書は割愛しています。このブログは自分の読書体験の記録のために書いています。過去に読んで今も残っていること、今後読もうと思って何を考えているかなどのメモです。そのため真面目な本が多いですが、暇つぶしや必要で読んだ本でも面白いものがあれば書きたいと思います。

書籍の出版年は、読んだ版の出版年のものもありますが、書かれた時代を知るために初版の年数を書くように努めています。投稿の日付は、過去のもの含めて読んだ時期です。過去のものはおよその時期やAmazonで購入した日、ブログ開始以降は最初の投稿日です。カテゴリーは私の主観です。